橋本関雪は著書の中で≪写生≫について、次のように言っています。
『写生をするとか、古画を観るということは、必ずしも一つの作品を作る場合の準備行為ではない。自分の素地を作り上げる、
作家としての修養である。題材を捉えてから、写生に奔命し、参考書に没頭するような態度で渾然とした藝術境の開けるものではない。
のみならず、あまり下絵とか写生に力を入れると、そのほうに甘味をとられて、いよいよ本紙に向かったとき、熱が乏しくなって
その残滓ばかりが残るような消息もある。』
耳の痛い言葉です。また加山又造先生は、著書の中で、次のように言っています。
『私は、絵をつくる者は、絵がわからなくてもよいと思っている。つまり、よい鑑賞者である必要はない。
それどころか、鑑賞者の立場に立ってしまえば、もうそれだけで、負の立場になり、絵はつくれない、と思いこんでいる。
(略)
絵がわかれば、こわくてちっとも筆は動かないであろうし、ましてや自分の絵を発表できるものではない。
ただ昨日、造ったものを、人に見てもらいたいだけ、いい、わるいは結局どうでもよい、「何に対してどうよい」などとは考えなくて良い。(略)
絵を造る者としての自分はそれでよいと思う。』
これもまた、耳の痛い言葉です。たぶん私はこの2つのトラップに落ち込んでいます。ここから脱出しなければ・・。